~ 病院にて ~
- 事故後の経過
病院には、母親も、秀輔の姉も、祖父母もすでに秀輔の容態を案じながら待っていました。 その時はまだ、手や足の骨を折った位で済めばいいな・・・と楽観的に考えていました。 いつまで経っても医師からの説明はなく、ひょっとすると大怪我をしているのではないかと思い始めた時でした。 医師が出てきて、何度も蘇生を試...
交通事故によって16歳の若さで亡くなった
小林秀輔を偲んで
病院には、母親も、秀輔の姉も、祖父母もすでに秀輔の容態を案じながら待っていました。 その時はまだ、手や足の骨を折った位で済めばいいな・・・と楽観的に考えていました。 いつまで経っても医師からの説明はなく、ひょっとすると大怪我をしているのではないかと思い始めた時でした。 医師が出てきて、何度も蘇生を試...
加害者が自宅に来ました。車を運転して来たのです。 私達家族、親族はあっけにとられました。 加害者は秀輔を車で殺した事を反省することなく、 車を運転することが怖いとも思わず、家に車で乗り込んで来たのです。 その時は、秀輔の祖父母、叔母にあたる私の妹、電話をかけてくれた叔父に対応してもらいました。 私達家...
2008年12月30日 お通夜 下諏訪にある「えこうホール赤砂」で行いました。 1000人を超える方に駆けつけて頂きました。 秀輔の学友、親友、空手仲間、野球仲間、 一昨日まで一日のほとんどを一緒にいたボートの仲間・・・ みんなが一様に苦痛の趣きで泣いてくれました。 花に囲まれて横たわる秀輔・・・ その顔にはわずか...
加害者が自宅に来てから、6日後の1月18日・・・ 長野日報に有限会社「フレイシア」の求人広告が掲載されていました。 しかも、問い合わせ先担当が、加害者の"中沢"になっています。 事故後、私は仕事も手につかず、眠れない毎日を過ごし、 秀輔のいない毎日に苦しみ喘いでいるのに・・・ 加害者は、事故後も平気で、車を...
私の親戚が、秀輔を撥ねた(エスタシアと名前の入った車)車(諏訪480 あ 11-35)が道を走っているのを見ました。 しかも、その運転手(加害者本人か従業員のいずれか)が、タバコを吸いながら灰を道に落として運転していたそうです。 まだ、秀輔が亡くなって2ヶ月しか経っていません。 その話を耳にした時、怒りで体が...
普通の年なら大晦日です。 我家はこの日秀輔を火葬にふしました。 秀輔の姿を見られるのもこれが最後です。 切なくて、悲しくて、それでも出棺の時間は近づきました。 その時です。電話が加害者からかかってきました。 「これから線香をあげに行ってもいいですか?」 加害者は通夜にも顔も出さずにいたのに、何故この悲...
秀ちゃんの、二階の部屋の窓に明かりがつかなくなって三ケ月がたちました。 おばあちゃんは、いつも夜廊下のカーテンを締めるとき、秀ちゃんは、もう学校から帰っただろうかと確かめて、明りがついているとホットしていました。 秀ちゃんが居なくなって一回だけ、新道を歩いていたら、パーッと明るくなり、秀ちゃんの窓...
年があけてすぐ、1月6日、お別れの会を「えこうホール赤砂」で行いました。 16才の若さで逝ってしまった秀輔。 どうしても"告別式"という事が嫌でたまりませんでした。 秀輔の好きだった曲 Greeeeenの「きせき」 こぶくろの「君という名の翼」 大好きな曲を流し、秀輔の笑い顔で会場を飾り、生まれてからの思い出で会場...
早いもので、秀輔が逝ってしまってから、四十九日が経ちました。 秀輔のボートの仲間、クラスメイト、野球や空手の仲間・・・ 秀輔の大好きだった友達を招いて、四十九日の法要をしました。 秀輔の思い出を語り、これから叶えるはずであった夢を語り・・・ 寂しさが一層増しました。 加害者は四十九日だということも知ら...
2月13日 加害者から手紙が来ました。 簡単な謝罪の手紙です。 その手紙の中に、白紙の便箋数枚と、封筒が同封されていました。 最初は何の事かわかりませんでした。 でも良く考えると、これで返信をよこせということのようです。 加害者は"謝罪してやるから、返事をよこせ"と言っていると私は思いました。 今までの、数...
2009年4月30日 行政処分聴聞会 加害者の聴聞会が開かれました。 私は、この加害者の今までの心無い行動に怒りを持っていたので、この日は秀輔の祖父、叔母にあたる私の妹、そして代理人である弁護士に傍聴してもらいました。 会場で、祖父達は加害者と会ったのですが、まともな挨拶すらしませんでした。 自分は何も悪く...